大名行列の歴史

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参勤交代とは  参勤交代の参勤というのは、領国を持つ大小名や万石に近い知行地を持つ旗本が、江戸へ出府して、勤めることで、交代というのは国許へ帰ることを言うのである。したがって、江戸へ出ることを参府、国許へ帰ることをいとまと呼んだ。

 家康は関ヶ原の戦いの後、外様大名の江戸参勤や江戸居住を奨励した。慶長7年(1602)に前田利長が母の芳春院を尋ねて江戸に参勤したのが最初の例といわれている。

 慶長の末年には、参勤が一般的になったが、寛永12年(1635)の「武家諸法度」では、毎年4月交替で参勤することを命じ法制として確立した。

 外様大名はすべて東西衆に分けて、毎年4月東西衆を交代して在府、在国させる。譜代は6月に交代する者69家、8月交代が9家、在府在国は各1年とし関八州の大名、在府、在国は半年間で2月と8月に交代する。

 尾張、紀伊両家の在府、在国は1年で、参勤月は3月、水戸家はつねに江戸に在府して領国へは帰らない。老中、若年寄、奉行などの要職にある者も江戸に留まる。ただし対馬の宗氏と北海道の松前氏は数年に1度の参勤で許されていた。

 大名の本処は江戸にあり、就封は領地巡察の形になり、当時中央集権の実をあげることができた。

 一方江戸は大名の集中によって一大消費都市となり諸地方交通の発達、宿駅の繁盛、文化の伝播に参勤交代は大きな要因となった。


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復元江戸生活図鑑より抜粋

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大名行列の構成  大名行列は臨戦態勢が取れるよう武器、武具を携行し、一定の兵員を同行させた旅行であった。道中は長旅のため、公式の服装ではなく、羽織に野袴、長羽織に半纏はんてん半被はっぴなどと軽装であった。

 行列は大名家の格によってさまざまだが、通常は、前駆、前軍、中軍、後軍、荷駄の行軍体形で編成される。前駆には露払いが先行したり、槍を立てたり、先箱さきばこ挟箱はさみ)が先頭に立つこともある。槍と金紋先箱によって何家の行列と判断できたから、この先頭の道具は重要な意味を持っていた。

 次に物頭に率いられた従士が続く。警護のため6尺棒を持ち、半纏に長羽織である。

 行列は軍役規定により槍組、足軽、弓組足軽、鉄砲組足軽の一隊が続くが、これらは軽装の旅行用半纏はんてん脛巾草鞋掛はばきわらじがけで組頭によって引率されている。弓組の弓は1尺ごとに籐が巻かれた尺籐弓という6尺ほどの弓で、物差し代わりにも使える下級品、弦を張り、尻籠しこをつけて持つ。手明きが従う場合には、弓矢台に2張と空穂うつぼ(矢を入れる道具)をつける。台の上端に蝶番ちょうつがい付きのかぎがあるのを肩に当てて片手で下方を持って担ぐ。つづいて矢櫃やびつ持が従う。交代要員の手明きがつき組頭が統率する。次に鉄砲組がつくのが先手勢さきてぜい(前軍)。鉄砲組を中軍か後軍に配置して前軍に騎馬の重臣がつく場合もある。この後に合羽籠がつく。

 旅行中は日除けのために大抵すげの一文字笠をかぶるが、藩によっては饅頭まんじゅう笠、武家奉公や人足は竹の子笠をかぶる。

 次に鉄砲組が続く場合と鉄砲組が後方になる場合と大名の駕籠かご護衛として家臣団が位置することもある。これは中堅の武士達で統率する武士は家老級の重臣。これには槍持、挟箱持、草履取、侍、足軽中間が従う。

 それから大名用の牽馬ひきうまが続く。牽馬は大名が駕籠に飽きたとき乗馬するためのものである。馬の口取り(馬の世話役)が2人つく。

 次に家臣団に囲まれた大名の駕籠が続く。馬回りという警護の武士が囲み、そのほか従士が従う。これらは羽織に袴の股立ももだちで護衛する。

 駕籠をかつぐものを陸尺ろくしゃくという。一般大名で大体前後3人ずつ位でかつぐ。つづいて刀持、薙刀なぎなた持、医者、茶坊主、茶弁当持、草履取、傘持が従う。薙刀を持つことは家の禄高と身分格をも示していた。傘は長柄の唐傘で羅紗地に家紋縫い付けである。この他に内科の医者を従えることもある。その後に多くの長持の箱が続く。長持には旅行中の備品や日用品、幕、金銭、着替衣類、合羽、草鞋、馬具や馬糧などが入っている。

 大名行列は旅人の住還が頻繁な所や、宿場、城下町を通る時は威儀を正して粛々と行進したが、人里離れた所では、かなり自由に行進した。

 参勤交代の行列人数は秋田藩20万5000石で1300〜1400人、10万石以上の中小藩では150〜300人位、加賀前田藩は2500人位の大行列であった。

 行列の費用も藩財政の2割を使い、街道筋の経済を大いにうるおした。

版画2
品川歴史館所蔵

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大名行列の家格と道具  行列の装いには、家の格によって違いがみられる。

 行列の先頭は槍であるが、槍が対の家は幕府に許可された限られた家であった。この槍を立てられると”槍一筋の家柄”と言うことであった。行列に立てる槍の数によって一本道具、二本道具、三本道具、跡道具、引道具といわれた。5〜6万石以上の大名はだいたい二本道具であった。槍の次が打物で黒羅紗、黒天鵞絨で柴の組紐で中結をした。

 続く挟箱は片箱、対箱、先箱、後箱の区別があり、加賀、仙台など20余家は金紋先箱といった。

 紋の書き方が様々あり箱の棒で紋所の中央を割る加賀の割紋は有名。長州は黄長革掛内金紋、南部津軽は赤長革掛内金紋、彦根藩が用いた一槍片箱は”井伊家の一本道具”として名高い。

 長柄傘は御目見得以上の武家から用いる規定だが、与力などの役柄には許されていない。この長柄にもいろいろ種類があって立長柄は五千石高の在職の者と高家、交代寄合い、一万石の者。袋入り傘は御三家、国主、御連枝、溜詰、大広間、柳の間、帝鑑の間、交代寄合表高家の内六家、御三家の家老のうち五家に許されており、雁の間、菊の間詰の諸侯には許されなかった。最高級の爪折袋入り傘は御三家、越前、加賀、薩摩、仙台のほか37家と柳の間諸高家の中に用いてよい家格があった。

 大名の乗物にもそれ相応の格式があり、公卿、間跡、徳川一門、国主、城主など一万石以上の諸侯とその嫡子、庶子は願い出た者、儒者、医者、僧侶に限られ、旗本の軽輩や諸侯の陪臣は年齢と理由を書いて出願し、許可を得てからでなければ乗ることができなかった。

 腰黒代打上は将軍家、黒網代打上は上野寛永寺の宮様、増上寺の僧、御三家御三卿の乗用、引戸蓙包は諸侯の乗用と家々の格式によって区別されていた。

版画3
品川歴史館所蔵

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大名行列の種類
出城奴・・・自国の城を出る時の奴所作
道中奴・・・街道を進中でする奴所作
入城奴・・・自国に帰って来た時の奴所作
宿入り奴・・・街道で本陣に着いた時の奴所作
奉納奴・・・神社仏閣にお参りする時の奴所作
登城奴・・・お城に登城する時の奴所作

 上記の他に参勤交代時に出発前殿様の前で奴見分と言う閲兵えっぺい式の様な儀式を行った。

 行列の流派は赤坂流、松下流、岡部流などあり、とくに赤坂流は全国に20ヶ所以上伝承されている。
イラスト  赤坂奴は江戸赤坂周辺に住み、御府内での雇われ奴集団であった。世の中も安定した江戸中期各藩は参勤交代の経費を削減する為、道中で人数を少なくし、江戸の入口の品川、千住、板橋で奴を雇い隊列を整えて入府する時に赤坂奴等を使ったようである。

 明治になり廃藩置県で大名行列が消滅し、神社が大名家より道具を拝領したが、その振りがわからず、赤坂奴に習い今に伝承されているが、そのすべての振り所作が違うのは、多くの大名家のものを使い分けていたので数多くのバリエーションを持っていたためである。各地赤坂奴の所作を伝承しているものの、どの大名家の所作かは、判明している処はない。
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